死ねば何も残らない 釈尊(スッタニパータ)とマルクス・アウレーリウス(自省録)

ブッダのことば − スッタニパータ』 中村元
第四章「八つの詩句」、第六経「老い」
806 人が「これはわがものである」と考える物、――それは(その人の)死によって失われる。われに従うひとは、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。


マルクス・アウレーリウス 『自省録』 神谷美恵子
第四巻 19
死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを。しかしまた記憶する人びとが不死であり、その記憶も不朽であると仮定してみよ。いったいそれが君にとってなんであろうか。いうまでもなく、死人にとっては何ものでもない。また生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜいなにかの便宜になるくらいが関の山だ。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ。


素晴らしい。釈尊はいふまでもなく、マルクス・アウレーリウスも。五賢帝最後の皇帝、つまりパクス・ロマーナが確立されたときの最高権力者が斯くも名声を求めず実直であらうとは。